「多逢聖因」と二胡の魅力 ~リレーエッセイ28~‏

「多逢聖因」と二胡の魅力

33H 田村 早苗 (村木)

尊敬する父の遺した篆刻作品の一つに「多逢聖因」が有ります。
人は一生の間に多くの出逢いがあるがこの縁を大切にしなければならないと言う意味だそうです。( 写真①右は「萬邦大和」世界平和祈願の意 )
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二水高校卒業後数十年…。関西に住む私にとって二年前の同窓会は本当に久しぶりに友と再会した楽しいひと時でした。その年の秋に父が他界したのですが、
「友達は大切にしろよ、友達はいいもんや」と言っていた笑顔が今でも目に浮かびます。

今は帰沢する折には親友に会うのが専らの楽しみ。同期の方との交流も増え喜んでいます。金沢にお住まいの方々に比べれば少ないですが、父の友人の奥様が二水合唱部の先輩だったり、ご家族にも二水出身者がなどと意外な所で繋がりが有り驚く事も。

最近では関西在住の同窓生とも集まったり、Facebookを通して多くの方と交流が出来てとても嬉しい。特にリアルタイムで金沢の情報や風景写真が観られ、コメントの金沢弁が懐かしく、今まであまり話した事の無かった方々とも気楽にお喋りが出来るのが醍醐味です。

また、このリレーエッセイで28期に繋がっていられる事も楽しみの一つで、遠方の方、仕事や諸事情で同窓会に出られない方とも何処かで繋がっていたいという想いが叶えられる大切な場だと思います。何時も御尽力されている安田君に感謝!また、同窓会のために働いて下さっている皆様有り難うございます!

 私の趣味の話を少し

二胡と言う楽器をご存知ですか?
IMG_3137 (写真②)
二胡は中国の伝統的檫弦楽器で字の通り弦が二本あり胡弓とは違う楽器。
中国語では「erhu」アルフーと読み、20世紀に入ってから独奏楽器として弾かれるようになり、日本でも時々CMやドラマの挿入曲で耳にするようになりました。

ニシキ蛇の皮を張った茶筒の様な共鳴胴の上に棹が伸び、二本の弦を張ってある。その二本の弦の間に、竹と馬の尻尾の毛で出来た弓を通して毛の表と裏をこすって音を出す。押すと引くでは陽と陰、響きも微妙に違ってくる。

私が二胡を始めたきっかけは、チェン・ミンさんの演奏を間近で聴く機会が有り、その音色の美しさに魅了されたからです。バイオリンは子供達が習っていたのですが、また違った哀愁を帯びた何とも言えない響きでした。(ピアノは弾けるのですが、弦楽器をやってみたいとずっと思っていました。)
数年前NHKのTV放送で趣味の二胡講座が有るのを知り、テキストを購入し、ついでに放送開始に合わせて楽器も手に入れたのが50の手習いの始まり。

どこにでも持って行ける便利さと、バイオリンほど畏まらない手軽さで、お年寄りの方々と日本の歌を唄いながら過ごしたり、幼児教室で教えていた子供達にジブリの曲を聴いて貰ったり、二胡仲間とボランティアで演奏に行ったりしました。台湾出身の大阪弁めっちゃ上手な老師(先生の意)と、検定試験の受験と地元の方と交流の演奏会に参加する為、台湾にも二度程行きました。
と書くと如何にも上手そうだけど、自慢できる程の腕ではありません。

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写真③は去年、奈良に住む友人と娘と明日香村で演奏した時のものです。(中央が私)

大切な家族を無くしてから特に、いい歌いい音楽に触れるとしみじみとし、涙が出てくる時が有ります。言葉の通じない方ともメロディーを共有出来、昔覚えている歌で過去の思い出が蘇る事も有ります。それも音楽の持つ素晴らしい力だと思います。

もし二胡をされている方、ギターと二胡でコラボしても良いという方、良かったら是非一緒に弾きませんか?歌謡曲でもドラマのテーマ曲でも。遠くに居ても楽譜や練習音源を送ったり出来ます。(金沢でも東京方面でも遊びに行きます)

今私の最も好きな演奏者兼指導者はジャー・パンファン(賈 鵬 芳)。
BS-TBS日曜朝9:00~「こころふれあい紀行~音と匠の旅」に出演されているので興味のある方はご覧下さい。

中国の名曲も良いけどクラシック曲、昭和歌謡、など色々レパートリーを増やしたいと思っています。
おまけに近況報告です。

家でピアノを教えていて、毎年12月にミニコンサートとお楽しみ会をしています。
手作りのプログラムと拙宅のイルミネーションです。 (写真④⑤)
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皆様 Merry Christmas !
そして良いお年をお迎えください。

次は31H宮村美紀さんにお願いしました。

 

随想 ~リレーエッセイ 28~

 随想

37H 浅野恒一郎

 筆不精な自分だけど、大沼さんに頼まれて断わるはずもなく、思うままのことを書いてみます。高校の頃の自分と今の自分。たいして成長してないけど、恥をさらすことが怖くなくなったかな。振り返ってみました。

『金沢に生まれて、中2まで金沢にいた。中3、高1は、能登の輪島で過ごし、また高2、高3と金沢に戻った。編入で入った二水高校には、金沢の友(城南中や松ヶ枝小の同級生)も、輪島の友(浦出君)もいた。二水卒業後は京都、大津、野洲、長浜、彦根、そして今も住んでいる長岡京と関西の生活が続いている。京都に来てからは、金沢の友とは、まったく会わなくなった。4年に1度の松ヶ枝町小学校の同窓会だけが、故郷の友と会う機会だった。だから、ある日、職場に、上田誠君からもらった電話は、とてもうれしかった。
「浅野君は二水高校の卒業ですか?」。
「はい。」
「同級生の上田です。」
「覚えています。」
「今度高校の同窓会があるけど、出ますか?」
「はい。行きます。」
特にだれに会いたいというわけではなかった。あの時代に会いたい、あの頃を感じたいと思った。でもその時、そんな明確な理由で喜んだわけでなく、今書きながら、分析しているだけ。自分がどんな人間だったかを確かめたかったのかな。年月が、人見知りだった自分を、人の集まりが好きにさせてくれた。

今年で17年間住んでいる長岡京市は、京都市の南西に隣接し、京都大阪間のJRと阪急電車の両方の駅がある。自然もあり、タケノコの名産地でもある。そんな町の小さな病院で、内科の医者をしている。通勤は、自転車か徒歩。徒歩でも20分程度の距離。家の前の段々畑、田んぼの景色は、行き帰りに、疲れた心を癒してくれます。
長岡天満宮だんだん畑
「長岡天満宮」               「だんだん畑」

ただ仕事はハード。全くのオフ日は、月に一日あるかどうか。仕事から帰った僕を待っている妻は、今は寝たきりとなっている。3年前から難病のALSを患い人工呼吸器を着けた彼女は、24時間誰かの援助を必要としている。ALSは全身の筋肉が動かなくなる病気。ただし、知能は保たれている。友達とのメール、ヘルパーさんとの会話(音声発声ツールや文字盤)、テレビ、音楽、そして息子の笑顔が彼女の楽しみ。私の担当は1日4時間の介護。ただその4時間は、自分の食事、入浴もしながら。疲労と睡眠不足が慢性的に続く毎日。

18歳の息子は自閉症と重度の知的障害がある。息子のために生きることが、僕にも生きがい。ただ、実際は何も出来ない。彼を楽しませ、彼を笑顔にすることが、僕の出来ること。言葉を話せない彼は、考えを伝えることが難しい。親でも彼の気持ちや考えを分かってあげられないことが多い。一緒の時間を過ごし、彼の大好きなスーパーでの買い物とマクドナルドで同じメニューを毎回たのむことにつきあう。一緒にお風呂に入って、彼の頭を洗ってあげる。今年3月に支援学校を卒業した彼は、4月から車で1時間半ほど離れた、福知山市の施設に暮らしている。月に1回彼を迎えに行き、4日間一緒に過ごす。ただ出来るのはそれだけ。僕がいつか死んでも、施設があれば、彼は生きていける。僕がいなくても、施設の人達と楽しい時間を持ち、笑顔になれることがあれば、彼はハッピーになる。

まだ妻が元気だった7年前、将来の自分を思い、精神科医に転職しようと思い立った。というより、それまでも、何年も悩んでいた。このままの仕事をただ続けることに、飽きていた。満足感が得られなくなっていた。そして無謀にも、大学の精神科教室に入局し、新人として研修した。ただ働くうちに、同期の若い医師たちとは成長スピードの差を感じてしまった。そこで、身体疾患を合併した精神疾患の患者に対応することに、自分の方向性を見出した。そして、元の病院に復帰し、内科医と精神科医の二足のわらじをはくことにした。

卓球が強いことが、自分のアイデンティティーだった。中学時代は、卓球しかしなかった。輪島高校に入った時、卓球部が休部状態だった。何もしない1年間を過ごした。下宿している同級生の部屋に泊っては、一晩中話していた。それから、高2で金沢に戻った。二水の編入試験は一人で受けに行った。校舎に入ったら、ユニフォーム姿の池ボン(松ヶ枝町小の同級生)を見かけた。「池ボン、ここにいるんだ」。頭で思って、声にしなかった。まだ試験前だったから。試験は、あんまり出来てなかったけど当日合格と言われた。一緒に受けた三人とも合格だった。受かったら、卓球部に入ろうかと思っていた。中学の卓球仲間だった石田敦士に電話したら、「僕は1年でやめることにした」とのこと。輪島高校で卓球しない生活に慣れてしまい、結局卓球部には入らなかった。

二水にいた2年間は、人生の冬眠期間となった。夜、部屋で、寝ようとして布団に入って寝た記憶が全くない。翌日に何かしようと、早く寝ることがなかった。ただ、ラジオかカセットの音楽を聴きながら、本を読みながら、畳か絨毯の上でいつのまにか寝ていた。こんな生活を2年間過ごした。悶々としていた。だから、金沢を離れたかった。金沢にいることがいやだった。「金沢が嫌い」と言っていたし、本気で思っていた。

高校卒業と同時に、京都に住んだ。それからずっと京都か滋賀県に住んでいる。今は、故郷が恋しい。自分が金沢人だと感じる。関西人にはなれない。思えばあの頃、京都を選んだ理由は、京都の町が肌に会ったから。金沢と似た街並みがあったからだと思う。金沢が嫌いと公言して、飛び出したのに、似た町を選ぶ不合理さ。言葉の軽さ、未熟さを思い出して、寒気がする。

今でも、卓球をしている。大学で再開し、その後も、自分で社会人チームも作ったりもした。全国大会にも何度も出た。今では京都卓球協会の役員にもなってしまった。友達の大半が卓球人だったりもする。今は、たまにしか試合に出ないし、負けてばっかりだけど、やっぱり楽しい。卓球人だな。

最近は、卓球する時間がないので、ランニングで汗をかくことが多い。空いた時間が30分あれば、走れるから。相手もいらない。忙しいと運動も制限される。ハーフマラソンを年2回、10キロを年2回くらいが今のペース。京都マラソン、大阪マラソンは、応募するけど、抽選に当たらず。フルは、走ったことがない。いつか、走りたいと思う。
ピースぼさぼさ髪
「ピース」                「ぼさぼさ髪」

去年から参加した関西二水同窓会は、とても楽しい。金沢を出て、関西に住んでいる先輩後輩と話すことは、とても面白い。金沢にいたころには、全く知らない人たちと、何の遠慮もなく、旧知の知り合いのように話せることは、不思議な感覚になる。28期の仲間も実は知らない人の方が多い。今関西で会っている人達も、高校時代は話したことのない人が多い。同郷というだけで、楽しく付き合えるのは、年のせいかな。故郷が恋しいのかな。

関西在住の28期

関西在住の28期

根拠のない自信と夢だけの高校時代を恥ずかしくも、懐かしくも思い出す。失っていった夢は、平凡な幸せと引き換えられた。それでも、新たな夢を見る。これからの夢はかなうと、また懲りずに信じている。未だに、アイデンティティーが確立されてない気がする。未熟者って声が聞こえてくる。』

仕事が終わってから、職場のパソコンに向かって書いています。疲れた頭は、宙を舞っています。失礼なこと書いてないか、心配ですが許してください。

僕の次は、関西在住のつながりで、田村早苗さん(33H)にお願いしました。、